フリーライター Sakamoto Norio ブログ
1971年に今話題の週刊文春に連載されていた作品。土曜ワイド劇場の初期、1978年に桜田淳子主演で映像化されている。観たい。あらすじ出版社に勤める矢野は編集長から取材を頼まれる。ネタは新興の化粧品会社が主催する洋上大学。イマイチ気乗りしない矢野だったが、失恋したこともあり気分転換に取材を承知する。豪華客船セントルイス号は有名講師5名、選ばれた100人の若い女性たち、矢野と女性週刊誌の記者黒木らを乗
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1961年に連載された後一時中断し1982年に刊行された珍しい作品。2014年にフジテレビ開局55周年作品として向井理主演で映像化されている。あらすじ5億円の税金を横領した罪で服役していた元官僚の岡瀬が出所した。5億円の行方のうち1億円は行方不明。夕刊紙の記者・底井は編集長の山崎に岡瀬の尾行を命じられ、その意図に疑問を持ちながらも岡瀬の後を追う。しかし、2カ月近くたった後、岡瀬は東北の山中で死体と
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2003年公開の日本映画。前作の大ヒットを受けまたまた大ヒット。「湾岸署史上最低最悪の3連休」と銘打たれた本作。脚本を書いてる仲間の間では1の評価が高かったが自分としてはこっちの方が面白かった。1の有名なセリフを逆手にとった「事件は会議室で起きているのでは?」という視点がとても面白い。しかしまあ、この映画をプロデュースした亀山さんは最近フジテレビ社長を降りたり演じていた俳優さんたちのその後を見ると
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2008年の日本映画。第4回「このミステリーがすごい!」で大賞を受賞した現役医師・海堂尊の原作を映画化。原作と大きく違うところはなんちゅうても主人公の田口が男ではなく女だということ。演じたのは竹内結子。 舞台は東城大学医学部付属病院。成功率60%といわれる心臓手術「バチスタ手術」の専門集団「チーム・バチスタ」は26回連続手術成功という奇跡的な記録を成し遂げていた。しかし、突如3例続けて術中死が発生
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1998年初出の作品。舞台は徳島県、吉野川可動堰問題を扱っている。2007年にTBSで映像化。あらすじ四国八十八カ寺の取材で徳島を訪れた浅見光彦。第五番「地蔵寺」の本堂の裏手にある五百羅漢で出会った女性をモデルに写真を取り名前を聞いた。女性は今尾賀絵と名乗った。脇町の図書館に勤めているという。祖谷渓を訪れ取材する中、迷宮入り直前の殺人事件の存在を知り興味を抱く光彦。翌日、脇町の図書館を訪ね賀絵に会
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1985年初出の「信濃のコロンボ」こと竹村警部の活躍を描いた作品。2003年にテレビ東京で中村梅雀主演で映像化。あらすじ信州毎朝新聞の編集局次長・牧田が絞殺された。前日に口論していた部下の中嶋が疑われるが、同僚の青木や新妻の洋子が彼を助ける。しかし、恵那山トンネル・長楽寺・寝覚ノ床で次々と絞殺死体が発見される。大阪出身の洋子が発見現場が長野県歌「信濃の国」の4番の歌詞に出てくる地名と一致することに
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1965年初出の作品。その時のタイトルは「穽」だったが1975年刊行時に「裏切りの明日」に変更。1975年に原田芳雄主演で連ドラ化、1990年に工藤栄一監督・萩原健一主演でVシネ化。日本における警察小説のはしりの1つといえる本作。悪徳警察官が主人公というのは当時としてはタブー的設定であった。刑事が主人公の犯罪小説ともいえる。主人公沢井は警察官になった時から悪事に手を染めていたわけでなく、どちらかと
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2009年初出の作品。2012年にフジの十津川捜査班シリーズで「鎌倉電鉄殺人事件」として映像化。同年月曜の渡瀬恒彦のシリーズで似たようなタイトルで映像化作品があるがこちらの原作は「湘南アイデンティティ」。となっているけどそれもまた違う気がする。渋谷のマンションで大学生が毒殺された。現場にはおもちゃの江ノ電が残され「2」の数字が。十津川と亀井は鎌倉に向かう。すると翌日、江ノ電で女性の轢殺死体が。しか
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2006年のアメリカ映画。日本では翌年公開。全財産21ドルから立ちあがったクリス・ガードナー親子の実話に基づいた感動作。あらすじ1981年、サンフランシスコ。クリス・ガードナー(ウィル・スミス)は医療機器のセールスマン。しかし家賃の支払いもままならず、家計を支えてきたパートナーのリンダ(タンディ・ニュートン)の忍耐も限界。5歳の息子クリストファーにだけは寂しい思いをさせたくないと頑張ってはいるのだ
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2000年の日本映画。史実に基づく一揆を描いたことが画期的で、地元岐阜県の熱意が伝わる映画となった。あらすじ時は江戸時代中期・宝暦年間のこと。美濃国郡上藩で一揆が起こった。郡上藩主・金森頼錦(河原崎建三)は江戸の藩邸で官官接待に明け暮れる日々。そのツケが百姓たちにまわされひたすら耐えてきたが検見取りを強行するとあっては限界が来たのだ。宝暦4(1754)年8月10日、郡内の各地から農民が八幡城下に集
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